普門寺飛優のひゅーまにずむ

好きなものについて不定期に語ります。

歌が良ければすべて良し ~幻日のヨハネ -SUNSHINE in the MIRROR- 感想週報⑬ (終)『そして今日も』~

 ヌマヅを取り囲むように育った根は、上空に黒い花を咲かせました。既にヌマヅ全域は危険地帯と化し、人々は疎開か屋内退避を強いられていました。そんな絶望の中、ヨハネ達が立ち上がります。

 お待たせしました。お待たせしすぎたかもしれません。では、最終回の感想をお届けします。

歌が世界に広がる
(『幻日のヨハネ -SUNSHINE in the MIRROR-』第13話『そして今日も』より/©PROJECT YOHANE)

 

新たな一歩を踏み出した一匹と一人

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1. 新機軸! La la 勇気のうた

 13話は、事象から言えば「ヨハネたち9人が歌を歌って異変を退け、世界に平和を取り戻した」という、おとぎ話のような結末だったのですが、注目すべきはその気合の入りようです。ここまで、ともすれば守りに入りがちなようにも見えた『幻日のヨハネ』が、ここにきて反転攻勢に出ました。

 番組の冒頭から、ヌマヅの伝承を読み上げるナレーターとして、『光景記』を担当してきた島本須美さんが出演。前話までのヨハネの自信のなさで霞んでいた、「かつて歌で世界を満たした英雄」のことを思い出させてくれました。歌は確かに力でした。そして、どんな歌に力があるのかも、この物語を通して描かれてきたものです。

 さて、一般論として、歌が成立するためにはいくつかの要素が必要だと思います。ここでは、ライブなどでオリジナルの曲を披露する場面を考えてみると、

・歌う動機

・歌う内容

・歌う人と聴く人

あたりは必須要件だと思います。

 下から今回の例に当てはめていくと、ヨハネの歌う目的はかつての英雄と同じようにヌマヅの平和を取り戻すことであり、そうすると聴き手としてヌマヅの人々、海や空や大地や草木が想定されます。

 肝心の歌う内容は、守りたい気持ち、そして前話に引き続いてヨハネ「心の音」です。「心の音」とは言葉にならない想いであり、時に自分さえも気づいていない気持ちです。

「ヌマヅだけは絶対嫌ーっ!」

「お出迎えもなし」

「この街に思い出なんかないし、友達もいないし、居場所なんかどこにもなくて、こんな何もない街」

「なーんも変わらない」

「別に仲良くないし、関係ないし」

「どうせ私は、どこに行ってもだめなんだ。私にしかできない楽しいことなんて、どこを探したって見つからないの!」

 すべて予告の台詞でした。

 ヨハネが楽しく暮らせるように、自己の矛盾の部分を預かってくれていたライラプス。しかし、それはヨハネが自分と向き合うまでの話でした。ライラプスに預けてきた自分の弱さや恐れを認めたら、たくさんのことが見えてくるようになりました。「誰かが自分をビッグにしてくれる」くらいに思っていたヨハネが、どこまでも等身大の自分と一緒に走ったら、そこに8人と1匹 (ライラプスだって、仲間という名の「他者」になったのはつい最近のことです) の仲間がいて、かけがえのない「地元」がありました。

 誰かから与えられたのではなく、自分の中から見つけた気持ちを、ヨハネたちは歌います。

 そして、歌う人と聴く人の要素ですが、これは実際に聴く中で次第に認識が変わってきました。元々は、歌う人がヨハネヨハネの仲間たち9人、聴く人がヌマヅの人々、というのを想定していました。ところが、始まった『La la 勇気のうた』には、畳みかけるように度肝を抜く要素が現れたのです。

 まずは、Aメロ前から断続的に挿入されるSEに驚きました。まるで9人の歌に世界が呼応しているかのようでした。光が、水が、9人の歌に応えます。ネクタイの色を見る限り、きっとこの歌は、9人の住む世界の外側にも届いています。

 ところが、歌は天空に聳える闇の花から落ちた雷で中断してしまいます。とはいえ、それもこの歌が異変に「効いている」から、あるいは異変がこの歌を「聴いている」からに他ならないと思います。歌が伝わって、それが花にとって脅威になるものとわかってヨハネを攻撃しています。聴き手に世界そのものや、世界に巣食う異変も加わるのが『La la 勇気のうた』です。

 一人闇の中に閉じ込められたヨハネでしたが、8人の呼ぶ声はそこまで聞こえました。そして、ライラプスは自らの意思でその中に飛び込んでいきました。ヨハネの心象の中では、まだライラプスの喋る声が聴けるのですね。その声がたとえ魔法という名の虚構であろうと、確かにヨハネに勇気を与えた声であり、不安や恐怖をともに抱えてくれた声でした。ライラプスは歌っていませんが、ここでは歌い手と聴き手の中間に位置していると思います。

 そんな声により再開できた歌が、今度はヌマヅ市民に聞こえました。市民たちも、優しくて頼もしい人気者の少女たちの歌に合わせて歌いはじめました。誰に頼まれたでもなく、市民たちは一緒に歌いました。こうして、歌い手と聴き手の輪をどんどん広げて、すべてを繋げていった歌が、ついに上空の花を破壊したのでした。

 ラブライブ! シリーズはミュージカル的だと言われます。2013年のアニメから斬新な作風として取り入れられ、2022年には本当のミュージカルまで誕生しました。作品名としてラブライブ!』を名乗らず、学校もアイドルも登場しない異質な本作ですが、最終回にしてこの最大の特徴を、過去トップクラスに色濃く体現していったと言えると思います。

 

2. 総括① 魔法の在処

 この章では「ある前提」を抜きにして『幻日のヨハネ』を振り返りたいと思います。

 異世界でありながら、実在する沼津市の要素をベースに取り入れた「ヌマヅ」。『幻日のヨハネ』は、この場所で、ヨハネがどんな冒険を繰り広げる物語なのだろうと期待していました。

 しかし、話が進むにつれて私が困惑していったのは、ファンタジーは本作の中心に位置していないというところです。ファンタジーは、現実にない世界や社会の構造の中で、登場人物たちが不思議な力を使って問題を解決したり、強大な力に立ち向かっていくところに面白さがあります。しかし、『幻日のヨハネ』におけるそのような要素はそれほど強くありません。主人公ヨハネは等身大で、現実世界でもありそうなことばかりで悩んでいます。マリも情報社会で自分を失いそうになる現代人に生き写しですし、リコも目まぐるしく移り変わる環境の中で根っこを見つけられない私たちとそっくりです。唯一 "喋る犬" のライラプスだけがこの世界に彩りを与えていますが、そのライラプスも何か能力を持っているわけでもなく、ただヨハネのそばにいて支えてくれる存在でした。

 この物語は、そんな変わったことの何もない世知辛い日常のような世界に、「魔法」を見出す物語だったのです。

 この世界を襲う「異変」も、ファンタジーアニメの敵としては少々異質なものです。恐ろしいモンスターが暴れるでもなく、能力で人々を苦しめるわけでもありません。意思があるのかはわかりませんが、人々に対してそれを表現する術も持ちません。ただ不安と恐怖を振りまくだけであり、実際に人々に脅威をもたらすのも当初はその予兆に怯えた野生の鹿くらいのものでした。もちろん、鹿が人に襲い掛かったら命を落とすことだって当然あるのですが……。強くなった異変は、やがて人間をも昏倒させるほどの力を持ち、具体的な脅威となっていきました。人々が家に閉じこもり、人がいなくなった街は例えばコロナ禍を、長蛇の列を作って街からの脱出を待つ人々は例えば原発事故を連想させ、実際に私たちが目の当たりにしたことのある悲劇と重なります。

 最終話の曲中の演出からすると、この異変の正体は「孤独」そのものだったのだと思います。誰かとの繋がりを狙って切断するようなもので、あのまま成長すれば、おそらくヌマヅの人々は皆ヨハネが巻き込まれたのと同じような暗闇に閉じ込められて、花の栄養になっていたのでしょう。その花がつけた「悩みの種」が、世界中にまき散らされたかもしれません。

 しかし、自分ときちんと向き合った人や、仲間を信じられる人は孤独にも強いのです。そんな人々の歌を受け取った人も、繋がりが回復されることで異変に打ち勝つ力を得ていきました。

 これはみんなの心の問題なので、異変はいつまた起こるかわかりません。ですが、きっとみんななら、これからも大丈夫だと思います。成長したヨハネたちのこれからも、ぜひ見てみたいと思います。

 

3. 総括② Aqours! もう一度サンシャイン!!

 前項では、「ラブライブ! サンシャイン!!」にも、「Aqours」にも一切触れずに書いてみました。

 しかし、『幻日のヨハネ』は『ラブライブ! サンシャイン!!』であり、Aqoursでした。

 私がこの9人と沼津というモデルを使って全く新しいことをやるんだと思ったのと裏腹に、この物語は新しい『サンシャイン!!』でした。

 よく考えてみたら、『幻日のヨハネ』を待ち望む私の中にもヨハネライラプスのような相反する感情があったのです。一つは、ファンタジー世界でしかできない楽しいアニメを作ってほしいという感情、そしてもう一つは、8話の感想にも書きましたが、どんな世界でどんな経過を辿っても、結局同じAqoursになるところが見たいという感情です。後者はまさにその通りに叶いました。では、それと矛盾する前者が叶わなかったかというと、ある意味ではそうでもなかったと思います。8年という他の追随を許さない長い活動期間を経て、Aqoursらしさを確立し、しかもそれを日々更新していっているAqoursでなければ、学校もアイドルもない世界でAqoursらしさを発揮することはできなかったと思います。そして、一通りの完結に始まり、コロナ禍、一時的なメンバーの欠落、そこからの復活を経験し、忘れてはいけない沼津との絆をますます深めた「今」のAqoursだからこそ、『幻日のヨハネ』に「今」を投影し、完成させることができたのだと思います。その名前はついていなくても、ここがAqoursの現在地点です。思っていたのと違ったことは、問題になりません。

 ヨハネは、「自分にしかできない楽しいことを探す」という母から与えられた宿題に、最終的に答えを出しませんでした。自分の気持ちから逃げたままトカイに挑んだのも、やるべきことから逃げてヌマヅでずっと楽しく過ごしたいと思ったのも真の答えとしてはありえませんでした。その一方で、誰にもわからない未来を待つのではなく、ヌマヅで今日を頑張るというのは、堅実であり、同時に夢のある答えだと思いませんか。その日々こそが魔法だったと、あとになってからわかるかもしれないからです。

 歌を歌いながら人助けを続けるというのは、一つの答えとして成り立っている気もします。何も言わなくても母親は合格にしてくれそうですし、これからも頑張るヨハネを見守ってくれると思います。

 最終話の『La la 勇気のうた』を聴いて、私にもどうしてもやりたいことができました。ヌマヅの市民のように、「La la la」をみんなで歌いたいのです。12月には『幻日のヨハネ』のライブイベント『The Story of the Sound of Heart』が開催されます。チケットが当たるかはわかりませんが、今から期待しています。

 そして最後に、わからない未来の話を一つ。ラストシーンでトカイの様子が映りましたが、そこに見覚えのある2人の姿が映りました。『幻日のヨハネ』が『ラブライブ! サンシャイン!!』なら、大事な2人を忘れていますね。原典通りなら2人もまた遠い町からトカイを目指して出てきたのでしょうか。なんとこの2人 (のモデル) 、2024年3月に開催される『ユニット甲子園』にも登場するそうです。そちらで応援しつつ、これからの『幻日のヨハネ』の展開で2人の姿が見られることにも期待したいですね。

 

 最初に思い描いた形とは違っていても、かけがえのないものに出会えたヨハネ。私にとっての『幻日のヨハネ』そのものも、そういうものだったかもしれません。私もまた、今日も、今日を生きていきます。